イワタドレン開発物語
平成8年6月。埼玉県もそろそろ梅雨入りだ。
自宅の台所で一人酒をあおりながら、岩田敏夫は迷っていた。もういくつ木型を作り直したことだろう。もうやめようか……。
社長の道楽と陰口をたたいている社員がいるのも知っている。言いたいやつには言わせておけ。最高のものを目指さないんじゃ職人とは言えないじゃないか。敏夫はぐっと ウーロンハイを飲み干し、すぐにまた新しくついだ。若い頃はビールを40本も飲んだことがある大のビール党だったが、最近は健康に気を遣ってウーロンハイにしている。
敏夫が取り組んでいるのは、当時日本にはなかった、排水管にピッタリはまるFRP製ドレンの研究開発だった。なぜ、敏夫はこんなことに取り組んでいたのだろうか。
岩田工務店設立
昭和19年6月。敏夫は、新潟県十日町市に生まれた。4人兄弟の3男坊であった。
幼少のころから親戚の田んぼに借り出された。そのおかげで体力がついたのかもしれない。近所ではガキ大将だった。
雪の深い町だった。雪がいやで埼玉まで逃げてきたんだったよな……。
敏夫が埼玉に来た理由はそれだけではない。仕事もなかった。
中学を出てすぐに、市内の建具屋に住み込みで就職した。定時制高校に通いながらだった。親のスネをかじりたくてもかじれなかった。とにかく早く一人前になりたかった。
昭和30年代後半で今とは貨幣価値が違う。といっても、月給3千円だった。食事は保証されていたとはいえ、小遣いにもならなかった。作業ズボンを買うのが精一杯だった。4年後に独立して、手間受けになってようやく居酒屋に飲みにいけるようになった。
酒は当時から大好きだった。ついつい飲みすぎてしまう。ツケがたまった。しかたがないので、財布を持たずに居酒屋に出かけていって、他の客に喧嘩をふっかけて支払わせるという荒業を使ったこともあった。20歳を過ぎてもガキ大将のままだった。
昭和45年に結婚した。新潟では食えないと思い、埼玉県に引っ越した。食肉工場でしばらく働いたが、口下手で荒っぽいところのある敏夫は職場の仲間と折り合いが悪かった。冷凍室に閉じ込められたこともある。そのときは、さすがに死ぬかもしれないと思った。いつまでも続けられないなと思った。
昭和47年に長男哲也が誕生し、2年後には長女が誕生した。妻と子供がいる中で散々迷ったが、食肉工場の勤務を続けるのは、精神的にも収入的にも限界だった。何よりも人の下で働くのが性に合っていなかった。10代に修行した大工で生きていこうと決意し、昭和50年に岩田工務店を設立して独立した。
原価計算もロクにしない、いわゆる「ドンブリ勘定」の経営の中、材料だけはいいものにこだわった。おかげで利益がさっぱり出なかった。朝早くから夜遅くまで働くのだが、カツカツの生活が続いた。
FRP防水施工店に転身
当時多かったのが、ベランダ防水の雨漏りのクレームだった。お客の要望をかなえるため部屋内にベランダを作るのだが、その当時はしっかりとした防水法がなかったのだ。クレームのある都度、謝罪して、無償で修理した。そうでなくても苦しい経営だったので、これはこたえた。
そんな折、ある現場でFPR防水施工を見た。FRPはガラス繊維で強化したプラスチックである。それをベランダに塗布して、漏水を防ぐのがFRP防水である。
敏夫はこの工法にすっかりほれ込んでしまった。自分なりに研究を重ね、FRP防水と出会った翌年の昭和58年には、自社施工のベランダはすべて自分でFRP防水を施すようになった。
そのうち、他の工務店からFRP防水だけやってくれないかという依頼が来るようになった。水漏れのクレームの対応には、みんな悩んでいたのである。昭和60年には工務店を廃業して、FRP防水の専門会社「イワタFRP防水」を始めることにした。
妻ヨネと二人で、朝6時から現場に出かけて、夜10時過ぎに帰ってくる毎日だった。あの頃は、人の2倍も3倍も働いていたな――敏夫は振り返る。その甲斐あって、昭和63年ごろには、元大工が夫婦でやっている腕のいい防水屋として、県内の業界では有名になっていた。長男哲也も高校生になり、夏休みには手伝うようになっていた。
当時の埼玉県は、人口増加率が日本一であった。住宅が次々と立ち始めていた。追い風のなか敏夫の仕事はどんどん増えていった。ついに夫婦だけでは仕事がこなしきれなくなり、平成5年には人を雇い、1日に複数の現場をこなせる体制を作ることになった。
人間順調だと油断が生まれる。やったことのないシーリング工事にも手を出した。窓などの接合部に、シーリング材を充填するだけの工事である。見た目は簡単そうに見えたが、やってみると意外と難しい。専門業者に頼んでなんとか受注した工事を終えたが、工期が長引き顧客に迷惑をかける事態になった。そのことがあってからは、FRP防水専門でいくことにした。
排水管にピッタリ密着するFRP製ドレン
これほどまでにFRP防水にほれ込んでいた敏夫だったからこそ、どうしても不満なことが一つあった。ベランダに流れ込んだ水を排出するためにドレンを取り付ける。そのドレンによい製品がなかったことである。
ドレンの素材の主流は、塩ビ、ステンレス、鋳物などだが、これらはFRP防水と相性がよいとはいえない。FRP防水をするのであれば、同じFRPのドレンが一番相性がよい。しかし、当時のFRP製ドレンは、排水管との接続がしっくりこなかった。また、素材に関係なく、取り付けが面倒な製品ばかりだった。
欲しいのは、FRPでできていて、排水管にピッタリはまり、取り付けも簡単な製品だったが、それはこの世にはなかったのだった。いくら探し回っても見つからない。ないのなら自分で作ろう。そう思って始めたのがFRPドレンの研究開発であった。
金型を作るのはコストがかかる。大工をやっていたので木型を作るのなら簡単にできる。しかし、なかなか目指す製品の鋳型を作ることができないでいたのであった。
FRPドレンの研究を始めてからは現場は社員に任せて、自分は行かなくなった。
こんなことが可能なのは、素人でもできるように仕事のやり方を工夫してきたからであった。ガラスマットの切断機など、専用の作業しやすい道具を自作した。現場でガラスマットが飛び散らないようにトラックの荷台で作業できるようにした。ガラスマットを誰でも曲がらずに敷けるようにするために、敷く際には墨を打ち、それを目安にする。そういった工夫を数多くやってきた。周囲からは酒飲みのオヤジにしか見えないが、敏夫は実は緻密で合理的な人間であった。
合理性のほかにもう一つ敏夫に備わっていたのが、正しいことを続けていれば認めてもらえるという信念だった。この信念は敏夫の性格とも関係していたのかもしれない。生まれつき口下手だった敏夫は、友達を作るのが上手ではなかった。それが災いして、食肉工場ではまさに死ぬ思いをした。こんな自分が認めてもらうためには、口先でなく行いで示すしかないと考えた。
正しいことをやって結果を出せば認めてもらえる。それは独立してから確信した。敏夫はのちに、『防水ジャーナル』誌のインタビューにこう答えている。
「価格が折り合わなくなって離れていったお客さんもいる。でも漏水のない確実な仕事をしていれば、半年なり1年経つとまた“現場をお願いします”とくる。よい仕事をしていればそうなるものですよ」
こんな敏夫だから、自分が正しくないと思う仕事をするのだけは許せないことだった。当時の敏夫にとって正しくなく許せない仕事とは、漏水の可能性があり、工事もしづらいドレンを使い続けることだった。敏夫が目指していたのは、漏水発生率ゼロだった。そのためには、自分が追い求めているドレンが必要だった。FRP防水をする職人なら、どんな職人が使っても漏水しないドレンを作る。それが敏夫の夢であり、意地でもあった。
試行錯誤
研究を始めたのは平成6年の10月だった。さすがの敏夫も弱気になった。俺は1年半もの間何をしてたんだ。もうやめようか……。
そんな気持ちになりつつあった。
「いかん、いかん。とにかく寝よう」
焼酎の瓶は、ほとんど空になっていた。
数日後、知人の田中幸夫(仮名)が訪ねてきた。 田中は自動車整備工場を経営している。
「岩田さんは、最近は現場を社員に任せて、悠々自適だそうじゃないか。うらやましいね」
「誰がそんな噂をしてるんだ。悠々自適なんかじゃないよ。毎日悩んでるんだ」
「何を悩んでるの」
「ドレンを作ってるんだよ」
「ドレンって、排水菅にはめるやつ?」
「そう。そのドレンだ」
「そんなのいくらでも売ってるだろう」
「ピッタリなのがないんだよ」
「それは、あんたが完璧主義だからじゃないの?」
「まあ、それはそうかもしれない。でもねえ、ほんとにピッタリはまるやつがないんだよ」
敏夫は田中にこれまでの経緯を話した。
「なるほどね。FRP製でピッタリくるやつがないんで、自分で作ろうとしてるわけだ。あんたらしいや。ただねえ、今のままでは絶対にうまくいかない」
「ほう。なぜだい」
「木型じゃ精度が出ないんで無理なんだ。金型にしてごらん。案外簡単にできるはずだ」
田中は仕事柄、金型については詳しかった。エンジンの修理のために、金型を発注することがあるからだ。だからこそ説得力があった。 今までは、コストのことを考えて木型で作ってきた。お金がかからないからこそ、1年半以上も試行錯誤を続けてこれた。金型だったら、数回の失敗であきらめていたかもしれない。それぐらいコストが違う。
しかし、田中がそういうなら、賭けてみようと思った。なーに、どうせもう数回であきらめようと思っていたんだ。その数回を金型で試してみるだけのことだ。
確かに田中が言うとおり、ある程度納得のいく精度のものが1回目からできあがった。木型で試行錯誤していたのも良かったのだろう。いい感じではあったが、ピッタリという感覚ではない。ただ、手ごたえはあった。すぐにできるだろう。
結局、敏夫が納得のいく金型ができるまでには3ヵ月かかった。
できあがった試作品をさっそく社員に見せた。
「社長、これはいい。取り付けも簡単で、ピッタリはまる」
あきらめないでよかったと思った。やっぱり正しいことをやり続けて結果を出せば、人は分かってくれる。社長の道楽なんて悪口を言っていた連中も実物を見たら、とたんに生き生きしてやがる。敏夫の目には、熱いものがあった。
妥協せず納得して使える
翌平成9年3月。敏夫は“イワタドレン”の外販を始めた。自社で半年以上使ってみて、本当にいい製品だと思えたからだ。世の中には俺と同じようなこだわりの職人がいるはずだ。その人たちに使ってもらいたいと思った。
「世の中にはドレンで泣いている防水屋さんがたくさんいる。工事金額が安いから仕方なく防水材と相性の良くない安いドレンを使ったと言い訳をしたところで、漏水させれば最後は防水屋の責任になる。だから本物の職人さんには、妥協せずに自分が納得して使える、これなら漏水の心配がないと安心できるドレンを使って欲しんだ。」
社名を翌月に有限会社イワタに変更した。昭和60年から慣れ親しんだイワタFRP防水では、ドレンが売れないと思ったからだ。12年親しんだ社名を変更するぐらい、敏夫は”イワタドレン”に賭けていた。
パソコンも導入した。自分は使えないが、長男の哲也が昨年から入社している。哲也はパソコンが使えるので、ドレンを売るための役に立つかもしれないと思った。
実際には、まだインターネットも普及し始めたころで、ネットワークの速度も今とは比較にならないほど遅く、大手の通販会社が実験的にネットを取り入れ始めた程度で、まだまだカタログ販売が主流だった。ネットで広告したり、販売したりすることが当たり前になるのは、まだ5年ぐらい先のことだった。
哲也は当時流行り始めたダイレクトマーケティングにパソコンを活用しようと思った。図書館に通って、全国の防水屋のリストを作り、パソコン上に名簿を作った。パソコンで住所ラベルを印刷して、防水屋に直接DMを送ることにした。このような努力が実を結び、“イワタドレン”は少しずつ顧客を増やしはじめた。
それから10年近く経った平成18年11月。施工を担当していた社員が独立することになり、敏夫は防水事業から撤退することに決めた。敏夫は62歳になっていた。まだ現場に出られる歳ではあったが、他にもやりたいことがあった。
それは融雪屋根の研究だった。雪が嫌で新潟から埼玉に出てきた敏夫だったが、60歳を機に故郷の役に立ちたいと思った。防水事業から撤退する3ヵ月前の平成18年8月には、故郷の十日町市に融雪事業部を設立し、本気で融雪事業に取り組み始めていた。翌年には、5件の工事を受注したが、達成目標には程遠い数字だった。
簡単にあきらめる敏夫ではない。まだまだこれからだと思っていた矢先、平成20年7月、突然亡くなってしまった。享年64歳。
「良いものを提供したい」という使命感
後を継いだ哲也は、父についてこのように語っている。
「本当に頑固で、仕事には厳しかった。ガツンガツンやられた。私も若かったので反発したことも多かった。先代は、平成14年からはFRP製の内装用化粧パネルの研究を始めたのだけど、これには社員も私も反対でした。そんな“道楽”はやめて、せっかく作ったドレンにもっと本腰を入れてくれと頼みました。ドレンでさえ道楽だと思ってましたからね。ですが、先代は頑として言うことを聞かない」
結局2年半取り組んだが、パネル研究はあきらめた。ところが今度は、融雪屋根の研究を始めるという。哲也は長男が生まれたばかりだったこともあり、ついていけない気持ちになった。それでいったん退職してしまった。
「先代が突然死んでしまったので、急遽再入社して、2ヵ月後に自分が社長になりました。先代は、いいものだったら黙っていても売れると信じていたので、お客さんはほとんど知り合いばかりでした。売上だけを考えると正直
あまり魅力のある事業とはいえない。会社を畳むか続けるか、2ヵ月間悩みに悩みました」
どうして続けたのかという筆者の問いに、哲也はこう答えた。
「まずはお客さんと社員のことを考えました。自分が会社を畳めば、もちろん社員が困る。だから簡単にやめるとは言えない。お客さんはどうだろうか
私自身が、子供の頃から施工を手伝ってきたので、“イワタドレン”の良さは他の誰よりも良く分かる。
私が会社を畳むとその良いドレンが世の中からなくなってしまう。一時的かも知れないが困るお客さんはたくさんいるだろう。
また、今のお客さんだけでなく、“イワタドレン”を使ったことがない職人さんにも知って欲しい。
日本中の“本物の職人”に“イワタドレン”を届けないといけないという使命感が、ふつふつと湧いてきたんです。だから迷いに迷ったけど、続ける決心をしました。
この使命感が先代の残してくれた一番の財産だという気がします」。
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